成道会に経済問題を考える
今日はお釈迦様が悟りを開かれた「成道会」と言う記念日です。
私も真言宗・日蓮宗を信仰する家に生まれ、母は浄土真宗の門徒ですから、空海聖人や日蓮聖人、親鸞上人の文章は度々読んでいます。
ただ、恥ずかしながら、肝心のお釈迦様の経典そのものは、読んでもよく意味が判らないことがあります。そういう方は少なくは無いと思いますが、お経の意味も理解せずして仏教を語れませんので、少しずつ勉強していこうと思い、一時期仏教修業をしたこともありましたし、仏教史学会にも入会して色々と研究させていただいております。
さて、石鳥佳苗というアニマルライツ界隈で少し有名な方がおられるのですが、その方はスピリチュアルな方面でも色々なことを書いておられます。
かつて私は石鳥佳苗さん、当時は独身であったので林佳苗さんと言われていましたが(青山学院大学で成績優秀者として優秀賞を受賞した方です)、その方から色々と協力を受けていたこともあって、そのインスタグラムの投稿もたびたび見ていました。
するとその中で、お釈迦様の言葉として次のような内容のものを挙げていたのです。
「かつてお釈迦様が弟子に托鉢では金持ちの処ではなく、貧乏人の処を回るように言った。理由は『貧乏人はこれまで人に与えていないから貧乏になったのだ。だから貧乏人に与えさせることが必要だ。』というもの。私(石鳥佳苗氏)はこの話が好きです。」
それを読んで、確かにお釈迦様がそういう話を言った、と言うようなことは聞いたことがあるものの、私はこの話に少し疑問を抱いたのです。
この話、一歩間違えると「貧乏人が貧乏なのはこれまで人に与えていなかったから、自業自得だ」と言う意味に解釈されかねません。つまり「貧乏なのは自己責任」という、新自由主義的な主張になってしまいます。
そのようなことを本当にお釈迦様が言ったのか、きちんと史料批判をしなければならない、と私は思っていたのでした。
托鉢についての史料批判はまだ研究していませんが、今回ある本を読んでみました。
それは『維摩経解釈』と言う本です。
かつて私は宝蔵神社で修行していました。宝蔵神社は山王神道の流れを汲む神仏習合の神社で、そこで毎週長田忍先生から受けていたのが『維摩経解釈』の講義です。『維摩経解釈』は宝蔵神社中興の祖である谷口雅春先生が記された本です。
そこには、托鉢についての話も載っていました。
迦葉が貧乏人の家ばかり托鉢をしていた、その理由は概ね先程挙げた石鳥佳苗さんの文章の通りであるけれども、そうしていると維摩詰に声を掛けられた、と言うのです。
ところが、大迦葉がそういう様にして常に貧民窟ばかりを選って托鉢しておりましたら、後の方から「大迦葉」といって呼ぶ声が聞こえて来た。それが維摩であったというのです。さて維摩が「富者を捨てて貧者ばかりに托鉢してはならない」と横槍を入れた。という意味は、「お前は貧乏人はかわいそうだと思って、これから金持ちになれるように、惻隠の心を起こすように、そういう心を施してやるように、お前は貧乏人の貧民窟に托鉢しているけれども、考えて見よ、因縁は循環して貴賤はあざなえる縄の如きものである。今、上の方にあるかと思うとそれが下に廻っている。金持かと思ったら貧乏になり、貧乏であるかと思ったら、人を助けたりよく働いたら金持になったり、斯ういう風に上に上り、下に下り、糾える縄のようになっている。だから、今富んでいるからといって明日貧しくなるかも知れないし、今貧しくとも明日富むかもしれないのだ。又貧しくしていて幸福な人もあれば、富めるが故に悩んでいる人もある。もう既に福田があるのに、まだそれが出ていないだけでまだ貧乏している人もあれば、一時金持の格好してのさばっておっても、もう既に福田がなくなってしまっている人もある。斯ういう金持こそ転落の一歩手前で却ってかわいそうなのかも知れない。そうすると、今金持だからといってその人は羨むに足らないし、又貧乏だからといって嘆くに及ばないのである。(略)」といったのであります。これは病気でも同じことです。今健康だからその人の心が善いにきまっていない。今病気だからその人の心が悪いにきまっていない。既によい心の人で、過去の形がまだ消えないで病気をしている人もあるし、今現に悪い心を起こしていながら、それが形に現れる時期が来ていないので、健康で涼しい顔をしている人もあるのです。そこで「平等の見地を捨てず」人に対しなければ本当ではないのであります。(谷口雅春『維摩経解釈』120~121頁)
ここで「福田」と言う言葉が出てきましたが、仏教では寄付をすることを「福田」と言い、これは素晴らしい善の行いであると言う風に言われます。
では、福田への寄付をすればみんな金持ちになって、そうでなければ貧乏になるのか、と言うと、イカガワシイカルト宗教ではそういうことを言うかもしれませんが、それは仏教本来の考え方ではありません。
ここでコトバンクから「福田」の意味を調べてみると、こう書いてあります
① (puṇya-kṣetra の訳。福を生ずる田の意) 仏語。田がよく物を生ずるように、福徳を得させる人のこと。仏や僧、父母、貧者などを敬い、施しを行なうとき、多くの福徳を生み、功徳が得られるところから、これを田にたとえていう。仏を大福田といい、仏や僧を恭敬福田(敬田)、父母や師を報恩福田(恩田)、貧者や病者を貧窮福田(悲田)という。その他、種々の福田を数える。(精選 日本語辞典「福田」)
これを見ると、貧しい人々に対して「お前たちはこれまで善業を積んでいなかったから、貧しいのは当然である」みたいな考えではなく、逆に貧しい人々を「福田」として彼らに施しを行うべきである、と言うのが仏教の考えであることが判ります。
そもそも仏教の考えは因果律から解脱することにあり、因果律を根拠に人を裁くのは仏教における解脱からは程遠いものであると考えます。
さて、世俗の私たちが身銭を切って貧困救済のために活動するのは、中々難しいことではあります。
しかしながら、今の私たちは参政権を持っています。選挙権も有しています。
貧困解消を唱える政治家に一票を投じると、私たちの支払ってきた税金が自動的に貧困救済のために使用され、日本全体で多くの福徳を生むことが出来ると言うことになっている訳です。これほど素晴らしいシステムはありません。
私たちは新自由主義的な政党を支持せず、立憲民主党のような貧困の無い、全ての国民が活躍できる国づくりを目指す政党を応援し、一票を投じることによって、福徳を積むことが出来るのです。
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