亡き祖父の夢を見て
夢の中で風呂から上がった私は、脱衣場から出ると目の前に昨年亡くなった母方の祖父がいて驚いた。この時点で私はまだ夢であることには気付いていないため、祖父が生身の人間ではなく霊魂であると判断した。
慌てて祖母に話しに祖父母の部屋に行った。祖父をその部屋に連れてこようとしたが、既に祖父のものは部屋に殆どなく(というよりも生前からから祖父はあまり物に執着が無く、供養の際の依り代を探すのに苦労したものだ)、祖母の方から祖父の処へ行くという。祖父もかつての部屋に入ることにあまり乗り気ではない。
祖父からは焦っている様子を感じなかったが、それはいつものことである。他人に(特に孫に)焦るそぶりは決して見せないが、時間には厳格であった祖父のことだ。孫の勘で、祖父はどうも急いでいるように感じた。
そこで私は思い出した。霊界でも霊魂は修行をしていると聞いたことがある。祖父も修行しているのだろうか?と思って聞く。
「あの世でも忙しいんですか?」
すると祖父は答えた。
「そりゃ忙しいわ。」
しかし、その忙しさは霊界での修行というよりも、どうやら霊界でも引き続き仕事を頑張られているということの様であった。
その後、これが夢であると気付き、私は祖父から離れることに名残惜しさを感じつつ目を覚ました。
生前、祖父は仕事人間であった。それも亡くなる瞬間までそうであった。
祖父が最後に電話したのは祖母ではなく、なんと取引先であった。警察からそのことを教えられた時、私たちは「祖父らしい」と思ったものだ。
私は幼い頃から祖父が仕事の現場に連れていってくれたりした。父曰く、私が祖父についていく度におもちゃが増えたという。そうやって祖父は私を可愛がりながら、仕事がどういうものかを背中で教えようとしてくれていた。
仏教では霊魂は実在ではないとする。生きている人間の霊魂も本来ナイと解くのであるから、霊魂がカルマを積んで輪廻転生をする、という考え(常見)には立たない。
一方、仏教では死んだら何も残らないという考え(断見)も否定する。
古神道ではそもそも魂とは一つの場所だけに存在するものではない。魂は同時に複数の場所に存在し得る。
仏教と古神道の考えと合わせると、魂とは本来ナイものが仮に表れている現象に過ぎないのであって、その現象は空間的制約を超えて現れるものである。その意味で、私たちと同じ人格の存在が死語も再生するという意味での輪廻転生は存在しない。
夢の中では「あの世」という言葉を使ったが、実際には故人の幸魂(神理教の説では奇魂)はその家に現れる、と言うのが古神道の考え方である。
よく「あの世に生まれ変わっているはずなのにどうして位牌を拝むの?」と聞かれることがあるが、故人は家の中で生き続けている。
私は、本当に祖父が死後も仕事を続けているのだろう、と思う。そのような祖父の存在は、私にとってとても幸せなことである。
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