祈年祭

 今日は宮中や全国の神社で「祈年祭」と言う祭祀が行われる日です。

 と、言う訳で産土神社である小宅神社に行くと・・・小宅神社では祈年祭は「3月21日」でした。(笑)

 小宅生まれの小宅育ちでありながら、重要な地元のお祭りの日付を間違えているとは、恥ずかしいことです。

 どうしてこういうことが起きるのか、と言うと、元々祈年祭は「旧暦2月4日」に行われた祭祀であるからです。

 要するに、古代から近世までは(中近世にはあまり行われていませんでしたが)立春から一か月ぐらいたって「さぁ、春もいよいよ深まってきた!」という時期、もう桜が咲いているような頃になって行うお祭りであった訳です。

 新暦になってからは、流石に2月4日だと早すぎると言うことで2月17日にこの祭祀が行われている訳ですが、今日も雪が降っていましたし「暦の上では春だ!」と言われてもまだまだ寒い状態であります。小宅神社が祈年祭を3月21日にしているのは故無きことでは無いのでしょう。

 その祈年祭とはどういうお祭りかと言うと、一般には「秋祭り」に対する「春祭り」であると言われています。

 今朝も「祈年祭は五穀豊穣を祝うお祭りである」と言うような文章がSNSで拡散されており、それも確かに間違いでは無いのですが、歴史学を学ぶものとして少し祈年祭のもう少し深い意味を説明したい衝動に駆られました。

 だいたい秋祭りは新嘗祭や神嘗祭の前後に行われ、小宅神社でも「例祭」と言ってお神輿を担いで賑やかにお祝いするお祭りが秋祭りですが、しかし祈年祭は各神社の例祭や宮中祭祀における新嘗祭に神嘗祭とは少し意味合いが異なります。

 律令においては、祈年祭の際に天皇陛下が全国の神社の神職を集めて、全国の神社の神々に対して「班幣」と言うことを行われました。いわゆる式内社のすべてに行ったことで、このようなことは祈年祭の時しか行われていません。

 「班幣」とは「幣を班(わか)つ」という意味です。「幣」とは神様へのお供え物のことで、「班」とは「分け与える」という意味です。

 学校では「班田収授」と言うことを習われると思いますが、「班田」とは天皇陛下が国民に対して田を分け与えることを言います。これが行われている間は凶作・不作等が無い限り国民が飢えることは無かった訳で、「班田」は律令国家の根幹であったと言ってよいと考えます。

 「班田」が国民へ田を分け与えることであれば「班幣」とは天皇陛下が全国の神社の神々にお供え物を分け与えることであります。この「天皇陛下が神々に」と言うのが重要なポイントです。

 祈年祭の意義を説明するため、「天皇陛下と神社の神々の関係」について少し説明させていただきます。

 私は大学で共産党員の先生に政治学を教わりました。そのお蔭で左派の主張も頭の中に入っています。

 その共産党員の先生が「天皇陛下が万世一系ならば、一般の国民も万世一系ではないか!」と言われていました。それ自体は、まさに正論です。

 全ての国民は万世一系です。そのことを自覚できるか、どうか、で人生観が大きく変わります。私たちは万世一系を表現されている天皇陛下を見ることにより「国民も万世一系であった」と気付くのであり、現に件の共産党員の先生も天皇陛下がいたからこそ、自分も万世一系と気付けたはずなのです。

 よく「天皇陛下は神様の子孫として特別な存在であった」と、右派の人は肯定的に、左派の人は否定的に言われるわけですが、これは生半可な理解で合って、『新撰姓氏録』等の書物を見る限り、日本国民は皆「神様の子孫」であるというのが、我が国の古来の考え方です。

 海外の帰化人についても海外での祖を神として祀ってきたのが我が国であり、究極的には全人類が神々の子孫である、いわば「人間と神々とは同じいのちである」と言うのが日本の考え方なのです。

 そして、日本では天皇陛下が神々に位階を授けます。例えばお稲荷さんには正一位の位階が授けられています。

 位階が授けられると言うことは、天皇陛下の臣下と言うことです。しかも人間と共通の位階を授けられています。お稲荷さんは神様ですが、菅原道真や豊臣秀吉、徳川家康と同じ正一位です。私たちも菅原道真や豊臣秀吉、徳川家康と言った歴史上の偉人と同じぐらいの活躍をすると、正一位を授けられてお稲荷さんと対等になれる訳です(笑)。

 祈年祭は天皇陛下が臣下である神々に班幣を行うお祭りなのです。班幣とは言わば給料のようなもので、神社の神様は天皇陛下から班幣を受けてお仕事をされておられる、そして、そのお仕事に対して感謝を行うのが神社への参拝です。

 よく「神道は多神教」と言われますが、それは間違いであって、神社の神々はアプリオリに人間よりも偉いから崇敬されているのではなく、私たちは神社の神々と本質的には平等であるし、位階と言う点では神様を超えることも不可能では無いけれども、その神様の日頃のお仕事に対して敬意を払って感謝の気持ちで参拝をさせていただくわけです。

 菅原道真や豊臣秀吉、徳川家康らは正一位でしかも神社で神様として祀られていますが、彼らも私たちと同じ人間である、しかしながら、国家の為に素晴らしい活躍をされた、それで国民が感謝して神社に参拝されるわけです。菅原道真や豊臣秀吉、徳川家康を「god」だと言うものはいないでしょうから、これは多神教ではありません。

 産土神社の神様は、いわば「市長」のような働きをされている神様です。その地域を守ってくださっていることに感謝してその地域の住民が参拝をするのが、産土神社です。

 今では産土神社と氏神神社の区別があいまいになっていますが、氏神様は本来氏族の祖先神です。なお、小宅神社には境内社に私の氏神様も祀られていたのでそちらも参拝させていただきました。

日野智貴オフィシャルサイト

日野智貴の公式サイトです。立憲民主党党員、国民民主党サポーター。

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