上宮聖德太子傳補闕記(上宮聖徳太子伝補闕記)読み下し全文

【解題】

 「上宮聖德太子傳補闕記」はいわゆる「聖徳太子伝説」を語る比較的初期の史料であり、平安時代前期の成立であると推察される。

 その内容の多くは本文中に「大抵古書に同じ」とある通り『日本書紀』との共通点も多いが、中には『上宮聖徳法王帝説』によって『日本書紀』の内容を修正しているところもある。本文中には『上宮聖徳法王帝説』の名前は記されていないが、同書の影響が間接的にも及んでいたのであろう。

 後の聖徳太子信仰に影響を与えた『聖徳太子伝暦』よりも古い史料であり、『日本書紀』にも『上宮聖徳法王帝説』にもない興味深い記述がある。一例を挙げると、『日本書紀』には上宮王家を亡ぼしたのは蘇我入鹿の独断で蘇我蝦夷すらも反対であったと記されているが、『上宮聖德太子傳補闕記』では蘇我蝦夷どころか軽王(後の孝徳天皇)や中臣氏も共謀した上で山背大兄王らが襲われたと記している。

 中臣氏の系統である藤原氏の支配が確立した後でこのような造作が行われたとは考えにくく、一定の史実を反映している可能性がある。

 本書は極めて貴重な史料であるが、一般に入手が困難であるため、このブログにその全文を掲載して皆様の利便に提供することとした。

【本文】

『日本書紀』・『暦録』并せて『四天王寺聖德王傳』は、具に行事奇異の状を見すも、未だ委曲を儘さずして、憤々尠からず。 斯に因りて耆舊を略訪し、兼ねて古記を探り、調使膳臣等二家記を償得す。 大抵古書に同じと雖も、而るに奇異有るを説い、これを捨てる可からず。 故にこれを録して云うこと爾り。

石余池邊宮御宇天皇(用明天皇)、庶妹間人穴太部皇女を后と爲たまう。 后、夢みて金色の僧有り。 容儀太いに艶し。 后に對いて立ち、これに謂いて曰く、「吾に救世の願有り。願わくは暫く后が腹に宿らん」と。 后、夢の中に許諾したまう。 此より以後始めて脤有るを知りたまう。 十二箇月を經て、后、宮中を巡り厩の下に至り、覺らずして産有り。 女嬬抱き持ち、疾く寢殿に入る。 后もまた安臥したまう。 忽ち赤黄の光有り、西より至り殿内を照らし、良久しくして止む。 天皇、大いに異とし、群臣に敕して曰く、「此の兒必ず後に世に異なること有らん」と。 即ち大湯坐・若湯坐を定め、沐浴して抱き擧げたまう。 數月の後、能く言い能く人の擧動を知り、妄りに啼哭きたまわず。

三歳の後、常に旦に日に東に向い、南無佛を稱して再拜したまう。 人の敎えに因らず。 嬭母大いに奇とす。

六歳に至り宮中に諸の小さき王子の鬪い叫ぶ聲有り。 天皇、聞著たまい、笞を設けて諸の王子等を追い召したまうに、皆悚れ逃げ隱れたまう。 而るに太子は衣を脱ぎ獨り進みたまう。 天皇これを問いたまいしく、「兄弟不和にして諸の小さき王子等は輙く口を以って鬪う。今將に笞の誨せんとするに皆悉く隱れ避く。而るに汝は何ぞ獨り進める」と。 太子、合掌して天皇・皇后に對い、首を低れ奏して曰く、「橋を天に立てて昇ることも得ず、穴を地に穿ちて隱るることも得ず。故に自ら進み笞を受けん」と。 天皇・皇后、大いに悦びたまい、敕して曰く、「汝の岐 なること、朕今これを知れり」と。 皇后、懷を披きて抱きたまうに、その身大いに香わし。 香氣、常にあらず。 皇后、大いに異とし、乃ち最も愛を加えたまう。 一説に云う、『一たび太子を抱けば、即ち數月懐香し。 故に後宮爭いて抱き奉らんと欲す。 皇后もまた屢抱くことを加えたまう』と。

太子生れまして年十四、丁未の年の七月。 物部弓削守屋大連、宗我大臣と佛法を興こすおこさざるの論に縁りて、内に姻親の義を忘れ、外に君臣の道を蔑り、睚眦の怨を發こし、志逆の軍を興こし、己が黨類を率い、稻を以って城と爲し、軍士を調練し、京城を襲うを擬る。 朝廷震恐し、倉卒を事とす。 大臣、太子に勸め奉り、軍士を興し整え、難波に眞り後ろよりして襲う。 平群臣神手を以って少軍と爲し、志紀より澁川を襲う。 賊勢二分し、東西相戰う。 大連は榎木に登り、太子の軍と戰爲て甚だ強し。 官軍、矢に中る者衆し。 太子は殿に在す。 士卒は氣衰う。 軍政の秦川勝は、軍を卒いて太子を護り奉る。 官軍の氣衰うを見て、馳せて太子に啓す。 太子、謀を立て、即ち川勝をして白樛木を採らしめ、四天王の像を刻み造り、擎いて鋒に立てたまう。 太子自ら壯士を率いて賊に迫る。 賊、太子と相去ること遠からず。 賊、誓いて物部府都大神の矢を放ち、太子の鎧に中る。 太子もまた誓いて四天王の矢を放ち、即ち賊首大連の胸に中り、倒れて樹より墜ち、衆、亂れ躁ぐ。 川勝進みて大連の頭を斬り、少將軍は撃ちて餘黨を平げ、虜賊の首を家口に係け、玉造の東岸の上に覆奏す【東生郡に在り】。 即ち營を以って四天王寺と爲し、始めて垣の基を立つ。 大臣は太子と宮に還り覆奏す。 平群臣神手、軍政人秦造川勝等三人は各等差有り。 後に新たに位を制したまいし時に、神手は小德に叙し、川勝等は大仁に叙す。 四天王寺は後に荒墓村に遷る。

小治田大宮御宇天王(推古天皇)、太子を以って儲后と爲たまう。 天下の政事は太子に決す。 太子は即ち十七條の政事・國を修め身を修むる事【在別卷】を制したまう(註1)。 爾に於いて天下大いに嘉す。

此の時に高麗の慧慈法師、化を慕いて來朝す。 太子、悦び師と爲て業を受けたまう。 一を問いて十を知り、十を問いて百を知り、問わずして知り、思わずして逹したまう。 二年にして業成り、道は幽顯を被いたまう。 八人時に聲を共にして事を白すに、太子は一一能く辨じたまい、各情を得てまた再び訪うこと無し。 聰敏にして叡智なり。 是を以って名を厩戸豊聰八耳皇子と稱し、また大法皇と稱し奉る。 太子、慧慈法師に謂いて曰く、「法華經の中の此の句は字を脱せり。師の見る所は如何」と。 法師答えて啓す、「他國の經もまた字の有ること無し」と。 戊辰の年の九月十五日、大殿の戸を閇し、七日七夜羣臣を召さず、また御膳めさず。 夫人已下も近習することを得ず。 時の人、太いに異とす。 法師、曰く、「太子は三昧定に入りたまう。宜しく驚かせ奉ること勿れ」と。 八日の旦に御机の上に法華一部有り。 驚きて深く恭敬を加えたまう。 定めてより出でまして後に、常に口遊したまいて曰く、「可怜可怜、大隋國の僧は我が善知識なり。好々、書を讀むこと。書を讀まずは君子と爲すに非ず」と。 是は敕戒の辭なり。 太子、薨じたまいて後に、王子山代大兄は日夜六時に此の經を禮拜したまう。 癸卯の年の十月廿三日の夜半に、此の經忽ちに失せて去る所を知らず。 王子、大いに恠しみ、また以って大いに憂いたまう【今在る經は小野妹子の持たらせる所なり。事は太子傳に在り】。 十一月十一日亥の時に、宗我林臣入鹿等、軍を興し宮室を燒き滅ぼし、王子・王孫廿三王等、一時に尸を解け、共に蒼天に昇りたまう。

太子生れまして年卅六、己巳の四月八日に始めて勝鬘經疏を製したまい、辛未の年の正月廿五日に了りぬ。 壬申の年の正月十五日に始めて維摩經疏を製したまい、癸酉の九月十五日に了りぬ。 甲戌の年の正月八日に始めて法華經疏を製したまい、乙亥の年の四月十五日に了りぬ。 諸經疏を制して、義、儻し達せざれば、太子、毎夜夢みて金人の來り解けざる義を授けられ、太子乃ちこれを解く。 以って慧慈法師に問い、法師もまた領悟し、思わざるを發し未曾有のことを歎え、皆上宮の疏と稱し、弟子に謂いて曰く、「是の義非凡なり。本國に持ち還り聖趣を傳えんと欲う」と。 庚戌の年四月に本國に持ち渡り、彼の土に講演す。

丙子の年の五月三日に天皇不余たまう。 太子は願を立て、天皇の命を延べ諸の寺家を立てたまう。 即ち以って平復したまう。 諸の國の國造・伴造もまた各始めて誓いて寺を立つ。 是より先に、太子、國を巡り山代の楓野村に至りたまい羣臣に謂いて曰く、「此の地は體を爲す。南は弊い北は塞ぎ、河はその前に注ぎ、龍、常に守護す。後世必ず帝王の都を建つこと有らん。吾は故に時に遊賞す」と。 即ち蜂岳の南の下に宮を立つ。 秦川勝は己が親族を率い祠い奉ること怠らず。 太子大いに喜び、即ち小德に叙し、遂に宮を以ってこれに預けたまう。 また新羅國の獻ずる所の佛像を賜い、故に宮を以って寺と爲し、宮の南の水田數十町并びに山野の地等を施入したまう。

丁丑の年の四月八日、太子、勝鬘經を講説したまう。 三日にして畢り、その儀は僧の如し。 天皇大いに悦びたまい、王子・羣臣・大夫已下信受せざるは莫し。 天皇、針間國佐勢田の地の五十戸を以って末代に施し奉る。 即ち斑鳩寺・中宮寺等に頒ち入る。

太子、己卯の年の十一月十五日に巡りて山西の科長山の本の陵の處を看たまう。 還り向いし時、即ち日は申の時、道を枉げて片岡山の邊の道の人家に入りたまう。 即ち飢えたる人の臥して道の頭に有り。 去ること三丈許。 太子の馬、此に至り進まず、鞭すと雖ども猶駐まる。 太子自ら言いたまいしく、「哀々【音を用う】」と。 即ち馬を下りたまう。 舍人調使麻呂、握して御杖を取る。 飢えたる人に近づき下臨みてこれに語らいたまいしく「可々怜々、何なる人なるや、如此して臥せる」と。 即ち紫の御袍を脱ぎその人の身を覆い、歌を賜いて曰く。

科照(しなてる) 片岡山爾(かたおかやまに) 飯爾飢天(いひにゑて) 居耶世屢(こやせる)【四字音をもちう】 其旅人(そのたひと) 可怜祖無爾(あはれおやなきに) 那禮(なれ)【二字音をもちう】成利來也(なりけむや) 刺竹乃(さすだけの) 君波也无母(きみはやなきも) 飯爾飢氐(いひにゑて) 居耶世屢(こやせる) 其旅人可怜(そのたひとあはれ)【此の歌は夷振歌(ひなふりうた)を以ってす】

首を起し進みて答えて曰く。

斑鳩乃(いかるがの) 富乃小川乃(とみのおがわの) 絶者己曾(たえばこそ) 我王乃(わがおほきみの) 御名忘也米(みなわすらやめ)

飢えたる人の形は、面長く頭大きく、兩耳もまた長く、目は細くして長し。 目を開きて看るに、内に金の光の人に異なる有り。 大いに奇相有り。 またその身も太いに香わし。 麻呂に命じて曰く、「彼の人、香わしきや」と。 麻呂、太いに香わしと啓す。 命じて曰く、「汝は壽延び長かるべし」と。 飢えたる人・太子、相語ること數十言。 舍人等その意を知らず。 了りて即ち死す。 太子大いに悲しみたまいて、即ち命じて厚く葬らしめ、多く物を歛え賜い、墓を高く大きく造らしめたまう。 時に大臣馬子宿禰已下、王臣・大夫等咸く譏り奉りて曰く、「殿下は大いに聖なりと雖も、而して能わざる事有り。道の頭に飢えたるは是卑賤の者なり。何を以ってか下馬し彼と相語り、また歌を詠みて賜い、その死に及びては由無く厚く葬りたまう。何ぞ能く大夫已下を治めたまわんや」と。 太子、譏りし所の大夫七人を召し、命じて曰く、「卿等七人、片岡山に往き墓を開きて看よ」と。 七大夫等、命に依りて退き往きて墓を開く。 而るにその屍有り、棺の内、大いに香し。 歛えし所の御衣并びに新たに賜う彩帛等、帖きて棺の上に在り。 唯太子の賜いし所の紫袍は無し。 七大夫等これを看、大いに聖德を奇嘆し、還り來て報命す。 太子、日夕に歌を詠み、飢えたる人を慕い戀いたまう。 即ち舎人を遣わし衣服を取らしめ、而して故の如くこれを御したまう。

庚午の年の四月卅日の夜半に斑鳩寺に災有り。 太子、夫人の膳大郎女に謂いて曰く、「汝は我が意を觸れて事違わざれ。吾の汝を得たるは、我の幸い大なり」と。 羣臣を思い預め知りてこれを召すこと一事已上。 太子の念う所は、咸く預めこれを識りたまう。

太子の馬の如きは、その毛烏斑なり。 太子これを馭るに、室を凌ぎ雲に踑け、能く四足を餝り、東に岳に登り輔けし時は三日にして還り、北に高志の州に遊びては二日にして還る。 太子の臨み看んと欲せし地は、此の馬に駕し奉りて三四五六日、詣らざる處莫し。 太子、命の毎に曰く、「吾、意の馬を得たり。甚だ善きかな、々々」と。 儻錯ち むこと有り終日喫わず。 過ちを悔ゆる有るに似たり。 太子、喫うを宣したまい、敢て乃ち草を喫い水を飮む。 辛巳の年の十二月廿二日に斃す。 太子これを愴み、墓を造り墓に葬る。 今、中宮寺南の長大なる墓これなり。

宗我大臣、政を輔く。 太子はこれと與に三寳を興隆し、二諦を紹發し、始めて四天王寺・元興寺【一説法隆寺】・中宮寺・橘寺・・蜂岳寺【并びに宮領を川勝秦公に賜う】・池後寺・葛木寺【葛木臣に賜う】を起こしたまう。 また爵十二級【大德・小德・大仁・小仁・大禮・小禮・大信・小信・大義・小義・大智・小智】を制したまう。

太子の舍人宮池鍛師の犬有り。 鹿の脛を咋う。 太子、それを疾みこれを放つに、また同じ犬、同じ鹿の四脛を三段に咋い折る。 太子これを恠しみ、夢に誓いてこれを見、その趣を知らんと欲す。 夢見たまうに、艶き僧の東より至り、太子に謂いて曰く、「この鹿と犬とは過去の宿業なり。鹿は嫡と爲し、犬は妾なり。時に嫡、妾の子の脛を折る。これに因りて九百九十九世怨を結びて來り、今、千世にして正に滿足のみ」と。

壬午の年の二月廿二日庚申。 太子、病無くして薨じたまう。 時に年卌九。 慧慈法師、高麗國に在り、これを聞き大いに慟き、太子の爲に經を講ずることを發願し奉る。 願に曰く、「生々世々必ず淨土に上宮聖王に逢わん。吾は以って來る年の二月廿二日に必ず死せん」と。 竟にその言の如く、明くる年の二月廿二日に病无くて逝にき。 時の人大いに異とす。 彼もこれも大いなる聖にして、誰そその際を測らん。

癸卯の年の十一月十一日丙戌亥の時。 宗我大臣并びに林臣入鹿・致奴王子の兒、名は輕王・巨勢德太古臣・大臣大伴馬甘連公・中臣鹽屋枚夫等六人、惡逆を發し太子が子孫を計るに至る。 男女廿三王、罪無くして害さる【今見て名を計るに廿五王有り(註2)】。

         

山代大兄王蘇  殖栗王  茨田王

卒末呂王  菅手古王  舂米女王膳 

近代王  桑田女王  礒部女王

三枝末呂古王膳  財王蘇  日置王蘇

片岳女王蘇  白髪部王橘   手嶋女王橘

孫 難波王  末呂女王膳  弓削王

佐保女王  佐々王  三嶋女王

甲可王  尾張王

時に王等皆山中に入りたまいて六箇日を經て、辛卯辰の時に、弓削王、斑鳩寺に在す。 大狛の法師は手ずからこの王を殺す。 山代大兄王子は諸の王子を率い、山中より出でて、斑鳩寺の塔の内に入り、大誓願を立てて曰く、「吾は三明の智に暗く、未だ因果の理を識らず。然れども佛言を以ってこれを推すに、吾等が宿業、今に賽うべし。吾は五濁の身を捨て、八逆の臣に施さん。願わくは魂を蒼旻の上に遊ばし、陰に淨土の蓮に入らん」と。 香爐を擎げ大誓したまう。 香氣は郁烈として、上は雲天上に通い、三道に種々の仙人の形・種々の伎樂の形・種々の天女の形・種々六蓄の形現われ、西に向かい飛び去る。 光明は炫燿として、天華は零散し、音樂は妙響す。 時の人仰ぎ看て、遙かに敬禮を加う。 當にこの時に諸の王共に絶えぬ。 諸人みな未曾有を歎きて曰く、「王等の靈魂は、天人迎え去りて滅びぬ」と。 賊臣等の目は唯黒雲・微雷の寺の上に掩うを看る。 賊臣、太子の子孫を滅ぼし、後に乃ち大臣に告ぐ。 大臣、大いに驚きて曰く、「聖德太子が子孫は罪無きに、奴等、専ら輙く除き奉る。我が族の滅亡するその期遠からじ」と。 未だ幾ならずして大臣は門を合り誅せらる。 またその言の如し。 何をか奇とすべき。

壬辰の年の三月八日。 東方より種々の雲氣飛び來り斑鳩宮の上を覆い、天に連なり良久くして消ゆ。 また種々の奇鳥有り、上下より四方より飛び來りて悲鳴し、或いは天に上り、或いは地に居り、良久くして即ち東方を指して去る。 また池溝は瀆り川魚・龞、咸く自ら死ぬ。 天下の生民、皆悉く哭愴す。 また池の水皆色を變じ、水は大いに臭し。 また同じ年の六月に海鳥飛び來り上宮の門に居る。 また十一月、飽波村に虹有りて終日移らず。 人皆これを異とす。 また王宮に知らざる草有りて、忽ち青き華を開き須臾にして萎えぬ。 また二つの蟇有りて人の如く立ちて行く。 また二つの赤牛有りて人の如く立ちて行く。 また無量の蛙浦王門に伏う。 小子有りて弓を造り蛙を射て樂しびと爲す。 童子有りて相聚い謠いて曰く。

盤上爾(いはのへに) 子猿居面【二字は音を以う】燒(こさるこめやく) 居面太邇毛(こめだにも) 多氣天【已上の八字は音を以う】今核(たげていまさね) 鎌宍乃伯父(かまししのをぢ)

又曰く。

山代乃(やましろの) 菟手乃氷金爾(うてのひかねに) 相見己世禰(あいみきせに) 菟手支(うてし)

この二つの謠は皆驗有り。 預め太子の子孫滅亡の讖を言う。 斑鳩寺、災を被りて後、衆人、寺の地を定めることを得ず。 故に百濟の入師、衆人を率い、葛野の蜂岡寺を造らしめ、川内の高井寺を造らしむ。 百濟の聞師・圓明師・下氷君雜物等三人、合りて三井寺を造る。 家人の馬手・草衣の馬手・鏡中見・凡波多・犬甘弓削・薦何見等、並びに奴婢と爲る。 黒女連麻呂、麻呂が弟の万須等と爭論す。 寺の法頭に仕え奉る家人奴婢等、根本妙敎寺に白し定めしむ。 麻呂、年は八十四にして己巳の年に死す。 子の足人・古年は十四年壬午の八月の廿九日に大官大寺に出家す。 麻呂は聖德太子の十三年丙午の年の十八年に始めて舍人と爲る。 癸亥の年の二月十五日に始めて出家し僧と爲ると云云。

上宮聖德太子傳補闕記一卷

1 『群書類従』所収の原文には「太子即十七條政事條國條身事」とあるが「太子即十七條政事修國修身事」と解釈して読み下した。

2 同原文には「今見計名有廿■王」と欠字があるのを「今見計名有廿五王」と補って読み下した。

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